浅い眠りから目覚めて、この不本意な覚醒が物音に意識を引かれた為だと認識する。薄目を開けて音の発信源に目をやると、葉佩が上着のファスナを上げながら「すぐ戻るよ」と言って笑った。その言葉を信じた訳ではないが、皆守は何も言わずに目を閉じて、再び死に程近い眠りへと落ちていった。












 もう何度目か、意識が浮上した。耳に触れる雨音は、どこか懐かしく心地好い。
 可能な範囲で視線を巡らせて、あの騒がしい男が室内のどこにもいない事を確認する。時計は視界に入らなかったので諦めて、気だるい体をシーツに預けてぼんやりと虚空を見詰めた。
 かすかに苦い煙の香りがする。その香りを消してしまうのが惜しくて、アロマには手を伸ばさず寝そべったまま体を伸ばした。小さく間接が鳴る。体内にまだあの男が残っているような気がして、シャワーを浴びようかと一瞬だけ考えた。しかし身を起こすのは億劫だったので、結局はそれも為し得ずシーツに沈む。

 生ぬるい眠りをたゆたうと、つまらない記憶が浮かんできた。手の感触だとか、息遣いだとか、泣きそうな声だとか、濡れた皮膚の熱だとか、どうでもいい事ばかりが意識の浜に流れ着く。思い出してんじゃねぇよ、と自分に向けて小さく吐き捨て、振り切るように目を閉じた。
 逃げられないのはもう分かっていたが、だからといって抵抗もせず敗北を認められるほど皆守は達観してもいない。

 雨音が大きくなった。葉佩はどこへ行ったのだろう。夢現にちらりとそんな事を思ったが、以前のように諦観や失望は落ちてこない。ただ、少しだけ腹が立った。帰ってきたら、とりあえず殴ろう。
 すぐ戻るよと言った声を思い出す。その言葉が真実か否かは、あまり重要な問題ではない。「すぐ」という言葉の意味を定義していないのだから、それは数分かも知れないし、あるいは数ヶ月かも知れない。彼の仕事を考えれば、数ヶ月というのはそれほど永い時間ではない。事によっては数年の歳月を必要とする任務もあるだろう。それに比べれば、こんなまどろみの時間など無に等しい。

 風も出てきたようだ。ずぶ濡れで帰ってきたら、まずは風呂場に直行させよう。そんな事を考えながら、皆守はようやく重たい体を起こしてベッドから足を下ろした。ひやりと冷たい床に触れて、直後にベッドに戻って丸くなる。寒い、冷たい、だるい、動きたくない。葉佩が帰ってきたら、まずは靴下を持ってこさせよう。

 窓の外に目をやると、薄暗い空から大粒の水滴が落ちてくるのが見えた。その視界に閃光が走る。直後に轟音が鳴り響き、そういえば彼は傘を持っていただろうかと疑問がよぎった。葉佩が傘を差すという映像が、脳内のどこにも見当たらない。
 雨が降ると、葉佩はいつも嬉しそうに寄ってきて「入れて」とせがむ。皆守はいつも拒否する理由を探しながら、さも不本意だという表情を作ってから傘を差し出す。右肩が濡れるのが不快だった。左側の体温が不快だった。唐突に走り出した葉佩を追うのも、つい追ってしまう自分も不快だった。












 インタフォンが鳴ったが、ベッドから起きるのは不可能だったので聞こえなかった事にした。葉佩は鍵を持っているし、わざわざこの部屋を訪ねてくる客人に心当たりはない。頭から毛布をかぶり、世界との接続を遮断する。
 今度はノックの音が聞こえた。皆守が定義する普通のノックよりも少しだけ強く、苛立ちを叩きつけるような音だ。それにも反応せずにいると、ノックではない音量でドアが鳴った。力任せに拳で殴りつけるような音だ。同時に、聞き憶えのある声で名を呼ばれた。

「皆守先輩、いるのは分かってんすよ!」

 なんであいつが。浮かんだ疑問は、ドアが開く音で拡散した。なんで開いてんだよ、と怒鳴る声。続けて、殊更に存在を主張するような足音が迷いなく近付いてきた。
 そういえば服を着ていなかったと気付いて、しかし床に散らばった着衣には手が届かなかったので、不本意ながら全裸のまま足音の主の到着を待つ。数秒も待たずに、招かれざる客は姿を見せた。

「なんで開いてんすか」
「黙れ不法侵入者」
「ピンポンしたし、ノックもしましたよ」
「俺は返事してないぞ」
「してくださいよ」
「めんどくさい」

 外気が流れ込み、室内の温度が下がった。皮膚に触れた空気の冷たさに、ざっと全身が粟立つ。毛布を引き寄せ体に巻きつけると、夷澤はようやくさまよわせていた視線を皆守に固定した。寝そべったままの皆守を見て顔をしかめ、小さく息をつく。そうしてから床に散らばった衣服を拾い上げ、無造作にベッドへと投げつけた。

「おい投げるな」
「服ぐらい着てください」
「うるせぇな」
「飯は?」
「あ?」
「最後に飯食ったの、いつっすか?」

 問われて記憶を探る。昨夜はカレーを食べたような気がするのだが、もしかしたらそれは一昨日だったかも知れない。あるいは、もっと前だったかも知れない。曖昧な記憶を曖昧なまま口にすると、夷澤が更に大袈裟に顔をしかめた。断りもなくキッチンに向かい、冷蔵庫を開けてまた溜息をつく。
 皆守のいた部屋に戻ってきた夷澤は、「すぐ戻ります」と言って苦い顔をして出て行った。永遠に戻ってこなくてもいいのに、とは、思ったが言わないでおいた。

 夷澤は本当にすぐ帰ってきた。肩が少しだけ濡れていて、息が上がっている。雨の中を走ってきたのだろう。まだベッドにいた皆守を確認し、何か言いたそうな顔をして、しかし何も言わずにキッチンへと消えた。
 やがて漂ってきた香りは、カレーではなかった。不遜にも落胆し、アロマに手を伸ばす。火を点けるより早く、夷澤の呼ぶ声が聞こえた。無視してもよかったのだが、声を返してみる。

「なんだよ」
「できましたよ」
「何が」
「あいにくカレーじゃありませんが」
「なんでカレーじゃないんだよ」
「冷蔵庫、酒しかなかったっすよ」
「そうだったか?」
「胃が空っぽなのにカレーなんか入れたら吐きますよ」
「そんなに柔じゃない」
「いいから服着てこっち来てください!」
「なんで」
「飯だから!」
「意味が分からん」
「分かれよそのぐらい!」

 怒鳴り声と同時に毛布を引き剥がされた。寒いと声を発するまでもなく、頭上から服が降ってくる。着る前に風呂に入りたいと言うと、諦めたように「好きにしてください」と返ってきた。どうして自宅で風呂に入るのに、客人の許可を得なければならないのだ。釈然としない気分のまま風呂場に向かう。夷澤はずっと目を逸らしていた。

 シャワーを浴びてから、タオルを用意してなかったと気付いた。気付いてから、脱衣所にタオルが用意されている事に気付いた。なんて甲斐々々しい後輩だ。結婚するならあいつだな。しないけど。表面を流れる思考を流れるままにして、やはりいつの間にかきちんとたたまれた服を着てキッチンを覗く。夷澤は立ったままシンクに寄りかかり、腕を組んでこちらを見ていた。

「髪、ちゃんと拭いた方がいいっすよ」
「俺ら、結婚してたっけ?」
「してません」
「ああ、俺がお前から産まれたのか」
「産んでません」
「じゃあ、お前は俺が好きなのか」
「・・・」
「黙るな」

 目を合わせようともしない夷澤はさておいて、皆守はテーブルに並んだ物を見て急に空腹を覚えた。どのような目的でこの魅力的な料理はテーブルに並べられているのかと問うと、レトルトと出来合いばっかりですが、と言いながら、夷澤はようやく視線を上げた。

「あんたに食わせる為に買ってきて、あっためて、テーブルに並べたんすよ」

 どうしてそんなに泣きそうなのか、と重ねて問おうとして、思い直して違う言葉を口にする。「いただきます」と声に出したのは何年ぶりだろう。夷澤は少しだけ笑い、どうぞ、と言って椅子に座った。

 無言のまま食事が終わり、皆守は窓の外に目をやった。薄暗くなってきた空から、冷たい水が音もなく降り注いでいる。
 アロマをベッドの傍に置いたままだったと思い出したが、取りに行くのは面倒だったので食後の一服は断念した。肘をついて頬を支え、何故か洗い物までやってくれた夷澤に視線を流す。
 頼んだ憶えはないが、食事はとても美味しかった。礼を言うべきだろうかと考えながら、無愛想な後輩の横顔をぼんやりと眺める。その視線を察しているのかいないのか、夷澤は視線を落としたまま呟いた。

「葉佩先輩は帰ってきませんよ」
「は?」
「って俺があんたに言ったの、何回目だと思います?」
「知るか」
「俺も知りません、数えてないっすから」
「そうかよ」

 葉佩ならばつい先程、何やら言い捨てて出かけて行った。どこへ向かったのかは知らないが、すぐに戻ると言っていたような気がする。そう告げると、夷澤は俯いて唇を噛んだ。いつもは綺麗に整えられている髪が、今は乱れてその表情を隠す。皆守は急に不安になった。
 黒い砂が、自分の中にまだ残っている。それは記憶をあやふやにして、望んだ幻だけを見せる。不意に、姉の死を忘れた友人の事を思い出した。彼が取り戻したのは、誇りと強さ。晴れやかに微笑んで、葉佩に礼を言っていた。

 夷澤が顔を上げて、真直ぐに皆守を見た。

「葉佩先輩は死にました」
「なんで」
「事故で」
「は?」
「ここに向かう途中で、なんかトレーラーに突っ込んだとか」
「トレーラーがボケたのか?」
「ボケてんのはあんだた」
「俺は突っ込む方だろ」
「そう思ってんのはあんただけっすよ」
「ああ、まあ、実は主に突っ込まれてたが」
「何をっすか?」
「・・・言わせるな」
「・・・すんません俺も聞きたくなかったっす」

 おかしい。夷澤の言う事がさっぱり理解できない。葉佩が死んだなどと、しかも遺跡の探索ではなく交通事故などと、嘘にしても出来が悪すぎる。現に皆守は、ほんの数分前に葉佩の声を聞いた。すぐ戻ると笑って、そこのドアから出て行った。

 望んだ幻。

 雨音が耳につく。風も出てきたようだ。闇が音もなく忍び込んだ室内で、皆守はじっと目を凝らした。
 葉佩と共謀して、自分をからかっているのだろうか。なんの為に、などと、無意味な思考だ。葉佩の行動原理など、皆守は理解できない。あの男がどうして命を懸けて遺跡に挑むのか、皆守は今でも理解できない。どうしておにぎりを寿司と言い張るのか、どうして壁を見ると掘ろうとするのか、どうして明るいのに暗視ゴーグルを装着しているのか、どうしてオレンジスコーンを見ると泣きそうになるのか、どうして八千穂に嘘ばかり言うのか、どうして自分に手を伸ばすのか、どうして微笑むのか、どうして求めるのか、皆守は何も分からない。

 夷澤が溜息をついて、前髪を掻き上げた。その瞳が濡れていると気付き、皆守が思わず目を逸らす。悪趣味な冗談を言った直後に、彼はそんな表情をするのだろうか。

「今日、何月何日だ?」
「ああ、四月一日っすね」
「まあ、あいつは毎日がエイプリルフールだからな」
「否定はしませんが」
「嘘ばっかりだからな」
「そう、なんすか?」
「知らなかったのか?」
「ほんとの事も、たまには言いますよ」
「100回に1回ぐらいはな」
「信用ないっすね」
「あると思うのか」

 冷笑を浮かべて後輩を見やれば、夷澤はなんとも言えない顔で肩をすくめた。やはり泣きそうに見えた。

 夷澤は「また来ます」と言って玄関に向かい、靴を履いて、皆守を見て、ドアノブに手をかけて、また皆守を見て、何か言いかけて、しかし無言のまま、会釈だけして部屋を出た。生ぬるい空気がドアから忍び込み、皆守がふと眉根を寄せる。
 今は何月だったか。冬のように思っていたが、もしかしたら知らないうちに春になっていたのだろうか。そんなまさかと少し笑って、皆守はベッドに向かった。

 すぐ戻ると言った葉佩は、まだ帰ってこない。きっと春になったら戻ってくるだろう。根拠は特にないがそう断じて、皆守はまた死に程近い眠りへと落ちていった。