立春も過ぎて、また一段と寒さが増した。
 駆け抜ける風に奪われた体温を取り戻そうと、蓬莱寺はマフラーを口元まで上げて身をすくませた。今年になってから買った、まだ新しい紺色のマフラーだ。
 ちらりと横を見れば、彼の周囲には不可視のバリアでも張られているのかと疑いたくなるような無表情が見える。身を切るような冷たい風はたしかに彼の髪を揺らしているのに、彼の顔はいっそ涼やかだ。

「ひーちゃん、寒くねぇの?」
「寒いに決まってるだろう」
「ちなみに、俺は寒い」
「そうか」
「すげぇ寒い」
「分かった」
「なんでひーちゃんは寒くねぇんだよ」
「殴るぞ」

 と言って、本当に殴られた。しかも顔面だった。ごつっと音を立てて、彼の拳と頬骨が衝突した。正確には、接触したのは皮膚と皮膚だ。それは、ほんのわずかな衝撃とともに、蓬莱寺に彼の温度を伝えた。
 北風が通り抜けて、彼の黒い髪がそれに揺らされる。少しだけ赤くなった耳が見えた。いつもどおり白い首筋も見えた。

「おい、なんでだ」
「冬だからな」
「マフラーどうした」
「?」
「こないだの、あげたやつ」
「京一」
「なんだよ」
「形ある物は、いつか壊れるんだ」
「いつかってゆーか」
「生者必滅というだろう」
「マフラーは生者じゃない」

 冬の空のように凛として前を見据える瞳は、一切の迷いもなくいつだって真直ぐに世界を貫く。今も、まるで後悔など知らぬように、黒い瞳は揺らがない。ただ前を見据えている。

「おいこら、こっち見ろ」
「どこかで見た、ような気がする」
「失くしたのか」
「いや、どこかには、ある、と思う」
「失くしたのか!」
「消滅は、してない」

 たぶん、と口中でつぶやく声が、蓬莱寺の耳にも聞こえた。

 まったく寒そうに見えない彼も、本当は寒いのだと蓬莱寺は知っている。今はポケットに入っている手が冷えきっている事も、触れるまでもなく知っている。なので、蓬莱寺はマフラーを彼にあげた。あげてから、その日が自分の誕生日だった事に気付いて、何やら腑に落ちないと感じていたのだが、それも忘れていた。
 使い古しの、もう買い換えようかと思っていたマフラーだった。深く考えずに買った色で、特に気に入っている訳でも、愛着があった訳でもない。必要以上に大事にされても気持ち悪い。むしろ使い捨ててくれればいいと思っていた。

 しかし蓬莱寺は、深く嘆息するまねをして見せた。緋勇がまた前を見据える。つまり目を逸らす。

「せっかくあげたのに」
「いや、まだ消滅したとは限らない」
「マフラー消滅するってどんな状況だよ」
「燃えたら消滅するだろう」
「マフラー燃えるってどんな状況だよ」
「火がつくと燃える」
「火つけたのか!」
「いや、つけてない!」

 正直、マフラーの行方にさしたる興味はなかった。彼の気性をかんがみるに、後生大事に仕舞われているとも考えづらい。彼がそのマフラーを使用していた記憶もない。どこかに置き忘れたか、旧校舎で消し炭になったか。あの憐れなる檸檬色のマフラーは、そんな末路を辿ったのだろう。

 それよりも何よりも、蓬莱寺の心が騒ぐのはそんな理由ではない。
 頑なに前を見ている彼の肩に、無造作に腕を乗せる。近くなった髪から冬の風の匂いがした。重心を移動させるだけで蓬莱寺の腕を外した彼は、虚空を睨むようにしてこちらを見もしない。その心を占めるのが自分のあげたマフラーなのだと、想像するだけで冷たくなった頬が緩む。

「じゃあさ、今度はひーちゃんが俺に買ってくれよ」
「何を」
「マフラー」
「もう持ってるだろう」
「買ってくれたら、これやるよ」

 自分の首に巻きついた紺色のマフラーを指差して、だから次は失くすなよ、と言外に含めると、彼の瞳がふと揺れて、こちらを見た。清廉なだけではなく、気まずさとか、後ろめたさとか、そんなものが見出せる瞳だ。それは星のようにまたたいて、蓬莱寺はいつだって目が離せなくなる。
 誰かに引かれてよろけたり、または誰かを引いて揺らしたり、星の重力が気の遠くなるような距離を経て影響を及ぼし合うように、彼はたしかにそこにいるのだと、明瞭な思考ではなく、その瞳から漠然と感じるのだ。

 寒風が吹き抜けて、黒い髪がさらわれる。ずっとポケットに入っていた手がやっと現れて、風に乱されて目にかかった髪を払いのけた。そうして再び手がポケットに入ると、揺れる瞳はまた逸らされて、彼はいつもの無表情に戻る。

 どうせもうすぐ春が来る。そう言って、彼は前を見た。
 じゃあ来年、と言うと、彼は前を見たまま頷いた。