葉佩がその遺跡から約79時間ぶりに地上へ戻った時、既に辺りには薄く雪が積もっていた。疲弊した体に、深々とした寒さが染み込んでゆく。あとからあとから落ちてくる白く果かない雪片に、我を忘れてしばし見蕩れた。

 あの夜に彼の部屋を訪ねた時も、雪が降りそうだと思った。結局はそれを見る事なく地の底に潜ってしまったのだが、あのまま待っていれば雪にはしゃぐ彼を目撃していたかも知れない。まあ、彼が雪ごときで喜ぶとは思えないが。むしろ寒いだの歩きにくいだのと文句を垂れるに決まっている。

 見る事の叶わなかった映像を思い浮かべ、薄く笑う。凍えてしまう前に、葉佩は傷付いた体を引きずって協会の研究員との合流地点へと急いだ。
 合流地点は遺跡から程近い場所なのだが、近隣の町からは車で3時間ほどかかる。予定より早く切り上げたので、もしかしたらまだその場所にはいないかも知れない。そうしたら、この雪の中で待ち続けなくてはならない。それはちょっと死にそうだ。
 最悪の予想は、幸いにして的中しなかった。見憶えのあるランドローバーを発見し、思わず安堵の溜息をつく。こちらに気付いた運転席の男が、ハンドルに凭れかかったまま葉佩を睨んだ。

「遅い」
「え、でも予定より早くない?」
「寒い」
「車ん中あったかいよ!天国だよここ!」
「お前、自分が天国に行けるような人間だと思ってんのか」
「無理だね、だってもう生きてるうちに天国体験してるから」

車中に充満する甘い煙に、ああ生きて帰ったのだと実感する。慣れた仕草でギアを入れる男が、ほんの数ヶ月前にはクラッチを繋ぐのにも苦戦していたのだと思い出し、ふと不思議な気持ちになった。彼がここにいるという事実が、不思議でならない。本当にこれは現実だろうか。
 煙草に火を点けながら、悪路に舌打ちをする男を盗み見る。少し髪が伸びたな、とぼんやり考えていたら、無意識に手を出していた。明確な目的もなく届いてしまった毛先に、さてこれからどうしようという根源的な疑問が湧き上がる。降りしきる雪より冷ややかな目が、ひたりと葉佩を見据えた。

「なんだ?」
「いや、ええと、髪伸びたね」
「だから?」
「え、ええと、あの、俺が切ってあげようか、なんて」
「それはさておき、俺はちょっと困ってる」
「なに?」
「道が見えない」

無表情のまま淡々と告げられて、葉佩も正面に視界を戻した。ほんとだ、と小さく同意して、雪に埋もれた景色を眺める。隣に座る男の顔と、往路では確かに道だった雪原を見比べて、葉佩はあたたかいコーヒーを飲みたいと考えた。要するに現実から逃避しようと試みた。
 記憶が確かならば、道の横は川だった。川沿いに道を敷いたのだろう。つまり、踏み外せば真冬の川に転落する。それはちょっと死にそうだ。彼もそう思ったに違いない。ゆるゆると進んでいた車を完全に停めて、どこか眠たげな目で葉佩を見た。

「まあ、ここいらそんなに豪雪地帯じゃないし」
「で?」
「待ってたら雪やむんじゃね?」

否定も肯定もせず、眠たげな目が空を見上げた。つられて葉佩も上を見る。
 落下する白を見ていると、自分が浮上しているように錯覚する。静かな高揚をしばし見詰め、葉佩は唐突に楽しくなってきた。隣には彼がいて、外は雪が降っていて、死ぬ気になれば町まで歩いて行けない事もない。つまり、まあいいや、という結論が出てきたのだ。

「よし!雪合戦しよう!」
「元気だなお前」
「爆弾に石とか入れるの禁止な!」
「うん、お前にしては常識的な意見だな」
「まずは壁を作ろう!おー!」
「なんでそんなに元気なんだお前」
「うわつめてー!」

蹴り開ける勢いで車から転がり出て、葉佩が雪に身を投げる。疲れていた事も忘れて冷厳なる世界に走り出そうとしたら、不意に背後から甘い香りが身を包んだ。咄嗟に現状を理解できなくて振り返れば、見憶えのある色のダウンジャケットが肩から地面に落ちた。それを拾い上げ、付着してしまった雪を払い、しばし黙考する。
 見憶えというか、つい数秒前まで眼前にあった色だ。甘い香りは、何故だか妙に胸を締め付けるのがずっと不思議だった。あたたかくて甘いのに、どうしてこんなにも切なくなるのだろう。急に寒さが染みたのか、鼻の奥がツンと痛んだ。
 彼の名を呼びたいと思い、しかし声を出すと別のものも出てきそうだったので唇を噛み締め、葉佩は無造作に投げられた上着を握り締めて立ち尽くす。そうして、寒さにではなく身を震わせた。

 目覚めたら、彼はいない。
 死なないでくれと、俺を置いて行かないでくれと懇願しても、彼は手を振って行ってしまった。崩れ落ちる遺跡に埋もれて、彼の愛した思い出と共に沈んでしまった。間に合わなかった双子を責めても、隣にいた優しい友人に理不尽な八つ当たりをしても、彼はもう二度と戻らない。

 そんな夢を、何度も見た。
 夢寐にも忘れぬ恐怖が、ゆっくりと自分を壊していったのだと、気付いたのは最近になってからだった。跳ね起きて、涙に濡れた頬を撫でてくれた冷たい手は、本当に現実なのかと、葉佩は今でも疑っている。
 上着を抱いたまま動きを止めた葉佩を、彼が怪訝そうに窺っている。幻ならいっそ砕けてしまえと、以前の葉佩なら手を伸ばしていただろう。

「おい、どうした?」
「いや別に、なんでもないっすよ?」
「なんだその口調」
「いや、ええとね」
「なんでもないんじゃないのか?」
「お前が幻覚だったらやだなぁって」

自分の心臓にナイフを突き立てるような心地で口にすると、氷のような手が頬に触れた。乾いた打撃音と僅かな熱を残して離れていった白い手を、呆然と見送る。目にも留まらぬ速さで平手を食らったのだと、少しの間をおいて認識した。
 眠たげな声で、彼が問う。

「起きたか?」
「・・・うん」
「よし」
「痛い」
「だろうな」
「すげぇ痛い」
「そりゃ良かったな」
「そうかなぁ?」
「痛いって事は生きてるって事だ」
「ああ、そっか」

 唇の端で微笑んだ彼を見て、降り積もる雪を見て、今度こそ葉佩は恐怖した。生きる為に。

「で、どうしよっか」
「どうしようじゃねぇよ」
「うわあすごい降ってきた!」
「さっきから降ってる」
「道が見えない!」
「だからそう言ってんだろ」
「ってゆーか、告白したい事があります」
「嫌な予感しかしないが、言ってみろ」
「俺ね、さっき遺跡で転んじゃったんだ」
「ほお」
「で、左膝を負傷しました」
「ふうん」
「たぶん折れてはいないと思うんだけど」
「いいからお前は座ってろ」

助手席に蹴り込まれ、抱いたままだった上着を引ったくられた。と思ったら、ふわりと優しく肩にかけられた。どうしよう。
 無言で戸惑っていると、運転席に乗り込んだ皆守がギアを入れた。道なき道を進むのは、蛮勇であっても得策ではない。そう指摘しようと口を開いたが、声を発する前に車が発進した。

「ちょっと待って皆守!」
「俺を信じろ」
「なにその自信!」
「実は俺も告白したい事がある」
「うわあ聞きたくねぇ!」
「俺は、雪道を運転するのはこれが初めてなんだ」
「都会っ子だ!萌える!あ、いや、そんなに萌えなかった!」
「まあ落ち着け」
「どうしてお前はそんなにも落ち着いてられるんだよ!」
「全開で吹かせば脱出できる事が判明してる」
「一部の隙もなく間違ってる!代われ!俺が運転する!」
「お前は寝てろ、疲れてるんだろ?」
「そんな決死の優しさはいらないから!」
「生きて帰ったらカレー作ってやるよ」
「フラグ立てんな!」












 結局、町に近付くにつれて積雪は減り、数分も経たないうちに道が現れた。
 あたたかい車中でまどろんでも、悪夢は見なかった。緩いカーブの振動で目を覚ますと、見憶えのある風景が灰色に霞んで見える。そっと横顔を盗み見たら、皆守も葉佩を見ていた。慌てて目を逸らす。信号が青になって走り出してから、今度こそ気付かれぬようにそっと皆守に視線を向けた。同時に、壊れてしまった自分を思う。
 怖いもの知らずの《宝探し屋》は、もう二度と戻らない。あの夜に死んでしまった。

 甘い香りに包まれて、熱いコーヒーに砂糖を入れる夢を見た。
 負傷した左膝が痛い。たぶん腫れ上がっている。彼が見たら、きっと眉をひそめるに違いない。自分の方が痛そうな顔をして、でも何も言わずに唇を噛むのだろう。
 もし彼があの甘い声で行くなと口にしたら、この心はそれを拒めるだろうか。あの白い手で引き止められたら、と考えるだけで、葉佩は身動きが取れなくなる。恋焦がれた闇に、二度と戻れなくなるかも知れない。
 死さえ厭わぬ情熱に、真白い雪が降り積もる。

「皆守」
「ん?」
「さっきの角、曲がんないとホテルに帰れない」
「通り過ぎる前に言え」

 もう少しだけ、このままで。願ってしまってから、酷く後悔した。

 そうしてあたたかい部屋に戻り、熱いコーヒーに砂糖を入れて、隣でだらだらしている皆守を眺めながらそれを飲む。
 このまま冷たい白に覆われて、あるいは甘い熱に溶かされて、あんなにも魅力的だった闇すら忘れてしまうのだろうか。そんな事をぼんやりと考えながら、葉佩は無音の声を聞く。囁く声に耳を澄ましていると、居ても立ってもいられなくなった。
 ブーツを履き、いつのまにかベッドと仲良くなってる相棒の名を呼ぶと、恋人を抱くように枕を抱き締めていた皆守は少しだけ視線を上げて、すぐに逸らした。葉佩が言わんとしている事を正確に理解したらしい。

 窓の外では、夜闇と白銀に覆われた異郷の町が葉佩を誘っていた。早く行こうと言って皆守から毛布を奪うと、白くて冷たい手が気だるげに頬を掠め、あたたかいベッドへと葉佩を甘く誘う。
 どちらも素晴らしく魅力的だ。だから葉佩は、どちらも欲しいと思った。

「探検しようぜ皆守!」
「なんで」
「遺跡が俺を呼んでるんだ!」
「それは幻聴だ」
「早く準備しろよ」
「ほんといい加減にしろよお前」

 顔をしかめながら身を起こした皆守が、さも億劫そうにブーツを履き、愛用のベレッタを懐にすべり込ませた。闇のように葉佩を誘う白い手が、黒いグローブに包まれる。重苦しい音を立てて、ブーツの踵が安宿の床を踏んだ。

 降りしきる雪の中、黒衣の異邦人が夜を疾駆する。
 それ以降、この町で彼らを見た者はいない。
 おそらく朝を待たず次の場所に向かったのだろう。