どうやら日付が変わっていたらしい。電波の届かない遺跡から出てくるなり、葉佩のH.A.N.Tが音を立てた。世界各国に支部のあるロゼッタ協会には、キリスト教徒も多数いる。それでなくともお祭り好きの連中だ。年末年始は仕事をせずに休暇をとる者が多い。 葉佩は、特に休暇の予定もなかった。いつもどおり地下に潜り、いつもどおり疲れ果てて帰路を踏んだ。その帰路の最中に飛び込んできた同業者からのメールに、思わず頭を抱えた。 誰も彼もが「Happy」やら「Merry」やらとはしゃぎつつ、それとなく葉佩の様子を気にしているのだ。いわく、「お前の相棒が不機嫌」。またいわく、「カレーライスが辛すぎる」。およそ葉佩とは関連のなさそうな事象のすべてを、葉佩の行動の結果だとでも言わんばかりに訴えてくる。 葉佩の相棒は、あまり社交的ではない。日本人らしく宗教に思い入れもなく、クリスマスといえば、ケーキとチキンと電飾と玩具業界の激商戦、ぐらいの認識だ。個人的に、非情に忘れがたい出来事が同じ日にあったのだが、それはさておく。 ともかく、クリスマスパーティに参加するような人間ではないと、葉佩は思っていた。それが何を間違ったのか、あるいはただの気紛れか、誘われるままハンターたちの宴会に顔を出してしまったようだ。たしかに彼の作るカレーは評判だったが、同時に彼の気性についても、そろそろ知れ渡っていた。 つまり、どうしてあの男が、パーティなどという実に似合わない場所にいたのか、という疑問が浮上したのである。そんな場所に行こうものなら、飢えたハンターたちの肴になると、彼に予想できないはずもない。そして記憶違いでなければ、彼も年末の休暇はとっていなかったはずだ。 協会の支部に戻り、二日酔いで目の据わった事務員をからかっていると、背後から花の香りがふわりと身を包んだ。甘く冷たい感触に、葉佩が思わず固まる。対面していた事務員は、額を押さえる動作で目を逸らした。 「え、ええと、皆守?」 「遅かったな」 「まあ、ちょっとね」 「手間取ったのか」 「いや、ええと、うん、そうだね」 「来年に持ち越しか」 「ああ、まあ、そうなるね」 「無事でよかった」 「・・・そりゃどうも」 背後から首に腕を巻きつけられて、それが見ようによっては抱擁にも見えるのだと気付くまでに、約30秒かかった。 室内は暖房がついているのに、どうして彼の手はこんなにも冷たいのかと疑問に思い、しかし解答を得る前に葉佩は両腕で頭部をガードしてしゃがみ込んだ。直後に、皆守の左足が頭上を物凄い勢いで通過した。 「なに、なん、どうした!」 「落ち着け」 「無理!」 「うるさい喚くな」 「もしかして、酔ってる?」 「酔ってない」 「なんだー、酔ってたのかぁ」 「酔ってねぇっつってんだろ」 「いててててちぎれる!」 「安心しろ、お前が千切れたら俺が繋ぎ合わせてやる」 「それなら安心だね!」 「お前の中で安心という言葉がどう定義されてるのか訊いてもいいか?」 「いきなり冷静になるのやめて!」 耳の辺りをふわふわと漂う低い声と癖毛が、葉佩の冷静さを奪ってゆく。わずかに残された理性は、全力でこの場から逃げろと命じていた。逆らう理由はない。葉佩は絡みつく腕を振り払い、全力で走って逃げ出した。 後ろを振り向く余裕はなかったので、皆守がその後どうなったかは知らない。 愛用している宿に戻ってきて、今では顔見知りの宿母に愛想笑いだけして、葉佩は着替えもせずにベッドに突っ伏した。 なんだかとても疲れた。主に仕事が終わってからの一件で。 首筋の、彼が触れた部位が熱い。疲労と連れ立ってやって来る眠気は、まだ訪れる気配はない。肉体だけが泥のように困憊し、鋭く尖った精神が些細な苦痛を拾い上げる。 疲れていて眠れないというのは最悪だ。思い出したくもない記憶ばかりが浮かんでくる。体が動きたくないと主張するので、気分転換もできない。 安宿の窓の隙間から、冬の匂いが流れ込む。そういえばストーブを点けるのも忘れていた。手がかじかんでいる。鼻も冷たい。首筋だけが熱い。不快だ。息を吸い込んだら、眉間がつんと痛んだ。涙が滲む。寒い。冷たい。痛い。最悪だ。 去年の冬も同じように寒かったはずなのに、こんな気持ちにはならなかった。冷たい空気も、小さな傷も、疲れた体さえ心地好かった。 あいつがいなかったからだ。 硬いベッドで体を丸め、葉佩は唇を噛んだ。裏切ったくせに。口にするほど惨めにはなりたくなかった。 「だるい」と「ねむい」と「カレー」だけで構成されているようなあの男が、どうして自分と同業なのだろう。眠れない夜の暇潰しに、葉佩はそんな事を考える。何度か辿った思考の道を、今夜もゆるりと散策する。答えは特に欲していない。もしかしたら、答えは鼻先にぶら下がっているのかも知れないが、見えない事にする。 目を開けてから、眠っていたのだと理解した。鈍痛のする頭を上げて、部屋を見回す。取り立てて異変は確認できない。眠る前にも見たものばかりだ。 煙脂の染み込んだ天井。同じように薄汚れた壁にもたれかかる痩躯の男。無愛想な椅子と机。端の曇った姿見。シャワー室へと続くドアには、何故か刃物で引っ掻いたような跡がある。備品は協会に返却したので、葉佩の荷物は鞄だけだ。窓にはカーテンすらないので、町明かりがそれらを照らしていた。 待て。 気付き、葉佩の心拍数が急上昇した。誰かいる。気だるげに壁に寄りかかり、じっと葉佩を見ている男が。 「ちっ違うんだ!」 「違うのか」 「あれは、あの、わざとじゃなくって!」 「そうか」 「そう、気がついたらああなってたんだよ!」 「分かった」 「分かってくれたか!」 「お前、そんなに俺が好きだったのか」 「今の会話のどこら辺にそんな情報が含まれてたんだよ!」 カレーを腐らせてしまった事を怒っているのかと仮説を立てたがどうやら違うようで、葉佩はもうどうしたらいいのか分からなくなった。 そもそも彼に怒る権利があるだろうか。カレーを作ったのは彼だが、それは葉佩が頼んだのではない。彼が勝手に作って持ってきて食べろと言ったのだ。すべて彼自身が望んで、葉佩の都合など考えもせずに行った事だ。怒られる筋合いの事ではない。たぶん。 それ以前に、どうして彼はここにいるのだ。どうして《宝探し屋》を名乗っているのだ。どうして葉佩の相棒と周囲に称されて、彼も自分もそれを否定しないのだ。裏切ったくせに。 「葉佩」 「ちょっと待て近い!」 「寒くないのか」 「寒いけど近い!」 「ちなみに俺は寒い」 「うわ、ほんとだ、手冷てぇなお前そして近いってば!」 「という訳で」 「どういう訳だよ」 「あっためてくれ」 「ストーブ点ければ?」 「実につまらないが、名案だな」 「そんなとこに面白さを求めるお前が間違ってる」 皆守がストーブのスイッチを入れた。電気ストーブはあたたまるのに時間がかかると、不機嫌そうに呟く。おおむね同意ではあるが、特に不満も感じていなかったので、葉佩は何も言わずに毛布を引き寄せた。 二人が黙ると、部屋は物音ひとつしなくなった。葉佩は静寂が嫌いではないのだが、なんとなく居心地が悪い。そっと皆守が立っている方を盗み見る。皆守は、うつむいて視線を落としていた。両手をポケットに入れて、断崖に立つ自殺志願者のような顔で床を見詰めている。 「皆守」 「ん?」 「立ったまま寝るな」 「俺がどんな体勢で寝ようとお前には関係ないだろ」 「え、ほんとに寝てたの?」 「考え事してた」 「へえ」 「昨日、クリスマスだったろ」 「らしいね」 「ガルシアに拉致られた」 「ああやっぱり」 「で、なんか飲み会に強制参加させられて」 「本気で抵抗すれば逃げられたと思うけど」 「お前の話を聞かされた」 「・・・は?」 「去年、荒れてたらしいな」 「え、え?」 「裏切られたとか言って泣いてたって」 「ちょっと待って、あの、え?」 「俺に、裏切られたって、言ってたんだってな」 葉佩から表情が消えた。どうやってこの場を脱するかを考えるのに忙しくなって、表情にまで気を遣う余裕がなくなったからだ。皆守が淡々と続ける。 「俺は歓迎されてたんだな」 「いや、それは、どうだろう」 「お前以外の全員に」 葉佩を裏切るような人間が存在した。裏切られて傷付くような相手が、あの葉佩に。 ワイングラスにバーボンを注ぎながら、先輩ハンターたちはまるで我が事のように喜んでいた。皆守の肩を抱き、彼らは「ありがとう」と言ったのだ。 「いい先輩だな」 「場数は俺の方が多いんだよ」 「俺も嬉しかった」 「そうかよ」 「お前、家族がいたんだな」 「そんなに可哀相だと思われてたんだ」 見慣れた笑い方ではなく微笑んで、皆守は部屋を出ていった。 いつの間にかあたたまった部屋で、葉佩は窓の外を見た。クリスマスを終えて、町は新年を迎えようとしてる。葉佩にとってここは仮宿だ。明日になったら料金を支払って、宿母にもしかしたら最後かも知れない別れを告げて、次の仕事に向かう。次の仕事はバディを伴って行く予定だ。という事は、皆守が隣を歩くだろう。 明日もきっと寒い。今も、外は雪が降っている。でも、この部屋はあたたかい。これが当たり前になってしまったら恐怖で動けなくなるのだろうと思い、ストーブを消して毛布にくるまった。 闇を愛さずにいられない葉佩は、あたたかい部屋でひとり、そんな自分を憐れむ彼らの傲慢を憎んだ。 |