口には出さないが、葉佩はずっと思っていた。彼がいなかったら、自分は生きていないだろうと。「死んでいない」と「生きている」は、とても似ているが、違うのだ。
旅立ちは、雨だった。
俺は《宝探し屋》だからね、と口中で呟いて、葉佩はDT250のチョークを引いてスターターを踏み抜いた。ひとつ吹かし、エンジンの回転数を確認して、クラッチを握り、ギアを入れる前に道路に面したアパートの窓を見上げた。
閉じたカーテンの向こうで、きっとまだあの人は眠っている。もしかしたら、エンジン音で目覚めてしまったかも知れない。次に会う日が遠くなければ、恨みがましくこの事を言われるのだろう。次に会う日が遠ければ、たぶん彼も忘れているだろう。
夜が明ける少し前、葉佩は愛車に荷物を積んだ。まどろむ人の髪に触れ、今回は勇気を出して頬と唇にも触れて、俺が死んでもお前は生きろよ、と、まるで祈りのように心を残し、雨の降る朝に旅立った。
それを彼が嘆いているのだと、知らない訳ではないのだが、仕方ない。何故なら葉佩は《宝探し屋》だから。
浅い眠りから目覚めて、この不本意な覚醒が物音に意識を引かれた為だと認識する。薄目を開けて音の発信源に目をやると、葉佩が上着のファスナを上げながら「すぐ戻るよ」と言って笑った。その言葉を信じた訳ではないが、皆守は何も言わずに目を閉じて、再び死に程近い眠りへと落ちていった。
もう何度目か、意識が浮上した。耳に触れる雨音は、どこか懐かしく心地好い。
可能な範囲で視線を巡らせて、あの騒がしい男が室内のどこにもいない事を確認する。時計は視界に入らなかったので諦めて、気だるい体をシーツに預けてぼんやりと虚空を見詰めた。
かすかに苦い煙の香りがする。その香りを消してしまうのが惜しくて、アロマには手を伸ばさず寝そべったまま体を伸ばした。小さく間接が鳴る。体内にまだあの男が残っているような気がして、シャワーを浴びようかと一瞬だけ考えた。しかし身を起こすのは億劫だったので、結局はそれも為し得ずシーツに沈む。
生ぬるい眠りをたゆたうと、つまらない記憶が浮かんできた。手の感触だとか、息遣いだとか、泣きそうな声だとか、濡れた皮膚の熱だとか、どうでもいい事ばかりが意識の浜に流れ着く。思い出してんじゃねぇよ、と自分に向けて小さく吐き捨て、振り切るように目を閉じた。
逃げられないのはもう分かっていたが、だからといって抵抗もせず敗北を認められるほど皆守は達観していない。
雨音が大きくなった。葉佩はどこへ行ったのだろう。夢現にちらりとそんな事を思ったが、以前のように諦観や失望は落ちてこない。ただ、少しだけ腹が立った。帰ってきたら、とりあえず殴ろう。
すぐ戻るよ、と言った声を思い出す。その言葉が真実か否かは、あまり重要な問題ではない。「すぐ」という言葉の意味を定義していないのだから、それは数分かも知れないし、あるいは数ヶ月かも知れない。彼の仕事を考えれば、数ヶ月というのはそれほど永い時間ではない。事によっては数年の歳月を必要とする任務もあるだろう。それに比べれば、こんなまどろみの時間など無に等しい。
遠くない場所で、施錠された音が聞こえた。その直後、獰猛な獣の気配に取り囲まれている事に気付いた。
残弾数を心の中で数える。気配は8つ。1匹につき、5発と少し。割り切れなかった端数は気にせず、腰のナイフを抜く。無駄弾は撃てない。幸いにして、まだ五体満足だ。左肩の後ろが少々痛むが、動くのに問題はない。軽い打撲だろう。
1匹が高く吠えた。同時に床を蹴る。一斉に向かって来る獣の気配に集中する。硬い石の壁が、複数の足音を反響させて知覚を惑わす。
暗視ゴーグル越しの視界で、醜悪な獣が牙を剥いた。大きな口に、銃を拳ごと突き入れる。躊躇わずトリガーを引く。2発、3発。まだ死なない。銃を口から引き抜き、迫った爪をグリップで弾く。ついでに、横っ面に肘を突き刺した。セラミックス製の肘当ては、下手な武器よりも破壊力を有している。
背後に近付く息遣いに、しかし振り向く事はできなかった。激痛に視界が赤くなる。
再び静寂が狭い部屋を満たした時、葉佩は床に突っ伏していた。身を起こし、意識を失っていた時間を確認する。49秒も死んでいたのか。舌打ちと共に自分への罵倒を吐き捨てる。
後頭部を触ると、まだ乾いていない血液がグローブに染み込んだ。激痛を発する右肩を、慎重に検分する。折れているようだ。指は動く。次に左足首。左大腿。愛用している防具のお陰で、胴体に異常はない。致命傷は、一つもない。
うん、生きてる。声に出して確認し、大きく息を吐いた。止血と、捻挫や骨折した部位を固定する作業を終え、先ほど施錠された扉を調べる。見憶えのある模様を発見し、情報端末を開く。ほどなくして開錠の手段を発見し、扉に手を掛けた。
その瞬間、暴風のような狂喜が身の内を駆け巡る。また一つ、俺は未踏の場所を征服した。
この瞬間の為なら、命も惜しくない。
仕事を終え、怪我が完治してから帰路に着いた。時計を日本時間に合わせる。到着予定時刻は18時10分。エコノミークラスのシートでは、体を伸ばす事もままならない。帰ったら、心ゆくまでベッドで寝よう。胸中で呟き、目を閉じた。
たしか、明日は皆守も休みだ。思い出した事実に安堵する。よかった、俺はまだ「葉佩」だ。
起きたら夕方だった。よくある事だ。どうせなら朝まで寝ようと再び目を閉じてから、台所の物音に気付いた。なんだかいい匂いもする。
シーツと戯れつつ、あの声が飛んでくるのを待つ。それは間をおかず訪れると、皆守はもう確信していた。
「おはよう皆守!」
「夕方だ」
「グラタン作ったんだ!」
「このくそ暑いのに?」
「カレーよりマシだろ」
「お前の気持ちはよく分かった」
「ねえ皆守」
葉佩が、投げたボールを取ってきた犬のように皆守を見上げる。しかし騙されてはいけない。彼は《宝探し屋》なのだ。そして人の台所で勝手に、よりにもよってグラタンを作るような男なのだ。しかもカレーを貶しやがったのだ。騙されてはいけない。自分に言い聞かせながら、冷静に距離を測る。
「皆守、ただいま」
恐怖と後悔と希望と切願。
葉佩はそれら人間の持ちもの全てを、皆守に預けている。
「お前はカレー、つまり俺を否定した」
「おかえりって言えよ」
そして、皆守はそれを知っている。
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