日本の桜は見事だと聞いていたが、葉佩にはその心が分からなかった。ひとひらを手に取れば、淡く果かなく可憐であると感じられる。しかし、それが集合するともう駄目だ。人が途方もないものに抱く根源的な恐怖、そんなものを想起する。小さな虫がぞわぞわと群れを成してうごめいているような気持ちになる。殊に、夜の桜はおぞましい。
そんな事をぼんやりと考えながら、葉佩はただ立っていた。何かを(たとえば特定の誰かを)待っていたのではない。意味もなく、目的もなく、夜半も過ぎた道の上に立っていた。時折、残業帰りとおぼしき人が足早に通り過ぎてゆく。それとも、今から出勤なのだろうか。葉佩には判ぜられず、また判ずる意思もない。
だから聞き慣れた足音が近付いても、葉佩は振り向かなかった。足音の主も、特に歩調を変えるでもなく一定のリズムで靴音を響かせている。葉佩は俯き、顔を逸らした。ポケットの中で冷えた手を握り、どうかそのまま通り過ぎてくれと願う。
足音が止まった。
空恐ろしい沈黙が、白い花弁となって降り注ぐ。しかし理不尽な白は、彼には注がれなかったようだ。記憶にあるとおりの眠たげな声が、無表情に葉佩に向かって飛んできた。
「おい、そこの不審者」
「不審者じゃないよ、観光客だよ」
「じゃあ観光地に行け」
「東京タワーには行ってきた」
「だったら宿に帰って明日の計画でも立ててろ」
観念して振り向いた。記憶にあるとおりの眠たげな顔が、夜闇を隔ててこちらを見ている。またしても白が降り注いだ。
春の風は埃っぽくて、葉佩はあまり好きではない。空気はどこか重たくて、景色はいつも霞んでいて、訳も分からずもどかしい。そんな気持ちを伝える言葉も見当たらなくて、葉佩は黙って唇を噛んだ。
「葉佩」
「俺はもう葉佩じゃないよ」
「そうなのか」
「あそこでの仕事は終わったから」
「ふうん、まあ面倒臭いから葉佩でいいよな」
「よくない」
「じゃあ九ちゃん」
「それだけはやめてください!」
「なんでだ」
「死ぬから!」
「よく分からん」
「分かんなくっていい!」
「うるせぇ何時だと思ってやがる」
「ごめんなさい」
真っ当な人間などというあやふやな分類を葉佩は好まないが、多くの人間が眠っている時間である、という事実は理解している。眠りを妨げられるのは、誰だって不快だろう。葉佩は素直に音量を落とした。
「こんなとこで何してんの?」
「こっちの台詞だ」
「俺は、だから、観光」
「ほお」
「日本の桜は一見の価値があるって聞いたから」
「価値、あったか?」
「さあ、よく分かんなかった」
正直に答えて、視線を上げる。星のない空に、羽虫のように花が散る。やはり綺麗だとは思わなかった。
視線を戻すと、記憶にあるとおりの顔が見憶えのない表情を浮かべていた。どうやら花に酔って幻覚を見ているらしい。そう結論付けて、葉佩は手の平に爪を立てた。小さな痛みで覚醒できれば、と考えたのだが、霞んだ顔はまだ見憶えのない表情をしている。この程度の痛みでは、覚めないほどの酔いなのか。
「皆守」
「ん?」
「寒いね」
「そうだな」
「カレー食べたいね」
「そうだな」
「桜、綺麗だね」
「思ってもない事を言うな」
花に紛れて霞んだ顔が、見憶えのある表情で口の端を歪めた。よく知っている笑みだ。少しだけ安堵して、葉佩も微笑む。
彼は春に産まれたのだと思い出して、妙に納得した。この途方もない季節は、この人に似ている。ゆるやかで、穏やかで、甘くまどろみを誘うのに、時々酷く冷たい。眠りに落ちる瞬間のような、硬質な誘惑。待ってなどいなかったのに、繰り返し訪れてはこの心をざわめかせる。
「雪は?」
「は?」
「降った?」
「ああ、まあ、冬はそれなりに」
「似てるね」
「そうだな」
舞い落ちる花弁を見上げながら言ったので、言葉は正確に通じた。なんとなく悔しい。どうせ理解などしていないくせに。この心など知らないくせに。
春は嫌いだ。眠たくなる。睡眠とは死だ。世界との断絶だ。眠っている間は進めない。動けない。それでもいいと、あたたかい日差しがささやく。お前なんか死んでしまえと、空がやけに優しい声音で歌う。お前などいなくても、世界は春だ。世は事もなし。そう聞こえる。そんなところも、彼みたいだ。
「元気だった?」
「まあ、それなりに」
「お前、なんで生きてんの?」
「あ?」
「優しくしてくれた人殺して、俺も殺そうとして、やっちー泣かして、なんで生きてんの?」
「死ぬ機会を逸したから」
「じゃあさ、俺が殺してやるって言ったらどうする?」
「できるのか?」
「さあ、分かんないけど」
「試してみる価値はある、か?」
彼が左足を半歩だけ後ろに下げた。それだけで胸が高鳴る。ポケットに入れたままの手が、無意識にトリガーを絞る形になったのが自分でも分かった。古傷がじくりと疼いたのは、たぶん寒い所にずっと立っていたからだろう。
彼の異形の肉体を思う。そこにありったけの銃弾を撃ち込み、それでも息絶えない体にナイフを突き立てる。深くまで刺し込こんで、内臓を掻き回す。溢れた血液を舐めてやったら、どんな顔をするだろう。一瞬だけそんな夢想に酔い、我に返って冷めきった目に気付く。
「なんか気色悪いこと考えてただろ」
「え、いや、そんなまさか、滅相もない」
「寄るな変態」
「なんだよ、お前もだろ」
「なんで分かった」
「え、マジで?」
「まあ、ちょっと、俺も、いろいろ想像した」
「どんな?」
「そうだな、まずカレーを」
「ごめんやっぱ聞きたくない!」
慌てて言葉を遮ると、少しだけ残念そうに彼が口を閉じた。彼と自分とでは根本的に在り方が違うのだと、安堵のようにも失望のようにも感じる。だが、遮ってしまったのは失敗だった。気になる。あの一瞬で、カレーをどうする想像をしたのだろう。カレーを食べる想像では、普通すぎてつまらない。いや、それともただ腹が減っただけなのだろうか。
「あ、あのさ」
「腹が減ったな」
「もしかして腹減ってる?」
「いや、全然」
「なんで嘘つくの」
「厳しい真実と優しい嘘なら、俺は嘘がいい」
「今の発言のどこら辺が優しかったんだよ」
「俺が腹減ってたら、お前は命懸けてカレー探しに行くだろ?」
「ええと、それは、たぶん行かないと思うけど」
「行くだろ?」
「い、行かない」
「行くよな。そうしたら、また俺は待たなきゃいけない」
「・・・え?」
「だから腹は減ってない」
「ええと、コンビニで買ったカレー弁当じゃ駄目なの?」
「お前はきっと、俺の為に究極のカレーを探す旅に出る」
「いや、出ないけど」
「出ろよ」
責められているような気がするのは何故だろう。ゆったりとまどろみを含んでいた瞳が、夜風のように鋭く尖って葉佩を刺し貫く。きっとそれすらも錯覚だ。彼の言葉はどうせ嘘だ。信じて心を向ければ、また裏切られる。あの頃、その瞳が葉佩をどれほど傷付けたのか、彼は知らない。知らないまま、この先も生きてゆく。
騙されてたまるか。胸中で呟いて彼を睨むと、また風が吹いた。
「葉佩」
「言ったろ、俺は葉佩じゃねぇよ」
「お前の名前なんてどうでもいい」
「そうかよ」
「行かないのか?」
「行くよ」
おぞましい白濁の群れが、夜を汚して舞い踊る。風に眼球を刺されぬよう、葉佩は目を閉じた。その時、彼が安堵していた事を、葉佩は知らない。目を閉じた葉佩の前で、彼がどんな表情をしていたのか、ついに知る事はなかった。
桜のような薄気味悪い手が、すいと伸びて葉佩の肩を掴む。振り払う間もなくもう片方の手は背中に回されて、気が付いた時には頬の横に柔らかい髪があった。胸にはぬくもりが触れている。細い手が背中に爪を立てたが、厚着をしていた葉佩にその刺激は伝わらなかった。
ただ、甘く柔らかいぬくもりが体を包んでいた。
日本の桜は見事だと聞いていたが、葉佩にはその心が分からなかった。ひとひらを手に取れば、淡く果かなく可憐であると感じられる。しかし、それが集合するともう駄目だ。人が途方もないものに抱く根源的な恐怖、そんなものを想起する。小さな虫がぞわぞわと群れを成してうごめいているような気持ちになる。殊に、夜の桜はおぞましい。
そんな事をぼんやりと考えながら、葉佩はただ立っていた。何がしかの(たとえば別れを惜しむような)言葉を待っていたのではない。意味もなく、目的もなく、まだ肌寒い道の上に立っていた。時折、淡く果かない花弁が視界の端を通り過ぎてゆく。それとも、それは幻なのだろうか。葉佩には判ぜられず、また判ずる意思もない。
だから聞き慣れた声が耳元でささやいても、葉佩は顔を上げなかった。声の主も、特に何事か言い募るでもなく、すぐに黙り込んだ。葉佩は奥歯を噛み締め、口中に溜まった唾を飲み込む。ポケットの中で冷えた手を握り、どうかこのまま通り過ぎてくれと願う。
こんなにも恐ろしいのに、どうしてここから歩き出せないのか。
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