ガシャン、と窓が鳴った。浮上してしまった意識が大気温度の低さを拾い上げる。冷たくなった指先で布団の端を引き寄せ、逃してしまった眠りの尾を追おうと再び目を閉じる。するともう一度、窓が音を立てた。ガラスを隔てて憶えのある氣がこれ見よがしに存在を主張している。だが布団から出るのは嫌だったので、緋勇はそのまま夢の続きに意識を向けた。

「おーい!ひーちゃーん!」

どうやら外の人物は、雪蓮掌を食らいたいようだ。布団を跳ね除け、その望みを叶えてやろうと身を起こして勢いよく窓を開く。直後に、緋勇は息を呑んだ。
 ほの明るい街灯に照らされた景色が、白銀に染まっている。色を失った世界の真ん中で、蓬莱寺が今まさに次撃を放とうと身構えていた。顔を見せた緋勇に慌てて手の中の雪玉を下ろし、寒風に吹かれて赤くなった頬で嬉しそうに笑う。

「ひーちゃん!雪!」
「・・・雪だな」
「嬉しくねぇの?雪だぞ?」
「ああ、東京では珍しいな」
「あそぼーぜ」

その誘いを受けた訳ではない。ただ、蓬莱寺があまりに薄着だったので、思わず上着を貸してやろうと考えてしまったのだ。風邪など引かれては厄介だ。蓬莱寺が風邪を引いたところで、緋勇が迷惑を被る道理もないのだが。
 窓辺に引っ掛けてあった冬用の上着を掴み、直後に自分にも上着が必要だと気付いてもう一着を引きずり出し、雪を踏みながら待っていた蓬莱寺に駆け寄った。

「本物のアホかお前は」
「えーでも雪」
「つべこべ言うな。着ろ」
「お、おお、さんきゅ」

蓬莱寺が素直に礼を言って、渡された上着に腕を通す。それを満足気に見遣り、よし、じゃあとっとと帰れ、という気持ちを声にしようと口を開いた瞬間、氷のような手で腕を取られた。咄嗟に振り払えなかったのは、その手が冷たすぎたからだ。決して浮かれた彼の笑顔にほだされたからではない。

「おい、冷たい」
「うん、ひーちゃんがあっためてくれなかったら壊死する」
「そこまで追い詰められる前に帰って寝ろ」
「そんなんもったいねー」

冷えきった手を、握り締めた緋勇の手ごとポケットに突っ込み、蓬莱寺が走り出した。音を失った世界に、二足の靴が雪を踏む音だけが響く。引っ張られるような体勢で走らざるを得ない状況に陥った緋勇が右手のぬくもりに戸惑っている事など、彼はまったく意に介していない。走りながら、何がそんなに嬉しいのかと問いたくなるほど嬉しそうな顔で緋勇の名を呼んだ。

「ひーちゃん!」
「どこかで見た事があると思ったんだが」
「足跡つけに行こーぜ!」
「大型犬の散歩をする人だ」
「何が?」
「この状況が」

我ながら言い得たと思ったのだが、蓬莱寺には伝わらなかったらしい。この駄犬め。リードを引くような気分で腕を引く。白い息を吐き出しながら、歩調を緩めた緋勇に合わせて蓬莱寺も速度を落とした。
 時刻は深夜を回っている。繁華街などにはまだ明かりが灯っているのだろうが、住宅街に人影はない。時折トラックが立てる轟音が遠くに聞こえるだけで、辺りは静まり返っている。緋勇の右手は、先程から蓬莱寺のポケットの中だ。これでは雪蓮掌も放てない。成る程、考えたな。悔し紛れに胸中で呟く緋勇を、はやくはやくと急かすように蓬莱寺がしきりに引っ張る。

「どこに行くつもりだ」
「んーと、そーだなー」
「無計画か」
「だって雪だし」
「意味が分からん」
「降ってんなーって思ったから」
「矢も楯もたまらず人の家の窓に雪をぶつけに来たのか」
「積もってるし」

言い訳にもなっていない言葉を落としながら、コンクリートに薄っすらと積もった雪を踏む。雪の何が彼をそんなに駆り立てるのか。訊いてみようと思ったが、やめておいた。きっと言葉では説明の難しい現象なのだろう。どうせ明日には薄汚れて溶けてなくなるのに。だから、だろうか。
 思い立った蓬莱寺が、緋勇の顔を覗き込んで言った。

「あ、そーだ!学校いこーぜ!」
「おお、行ってこい」
「ひーちゃん、寒い?」
「寒い。しかも眠い」
「だらしねぇなー」
「今の気温は何℃で今の時間は何時だ」
「走ればあったかくなるって」

そう言って、またも走り出そうとした蓬莱寺を右手で制する。人のポケットに手を入れたまま走るのは想像以上に難儀だった。そんな事態を想像した事など人生に於いて一度たりともないのだが。なんだが腹が立ってきて、緋勇は同じポケットに入っている蓬莱寺の手を強く握った。ささやかな抵抗のつもりだったのだが、蓬莱寺はまず驚き、次にふわりと微笑んだ。あたたかいポケットの中で、固く握り返される。違うんだそうじゃないんだ。分かってくれ俺は眠いんだ。お前を殴り倒してでもとっとと帰って寝たいんだ。湧き出る言葉はしかし声にならず、喜びを噛み締める彼には届かない。振りほどいて立ち去る事も、何故だかできない。
 緋勇としては非常に気まずい沈黙に思えたが、蓬莱寺は実に幸せそうだ。俯き加減で歩きながら、時々チラリと緋勇を見てはすぐに前に向きなおる。だからお前の脳はどうして常に春なんだ。もしや、だからこの寒さも感じずにいられるのだろうか。それはずるい。でも常春な脳にはなりたくない。

 難問を心中で転がしているうちに、目的の場所に着いてしまった。慣れた仕草で校門を乗り越えた蓬莱寺は、緋勇があとに続く事を疑っていない表情で待っている。門を掴む時に、さすがにポケットからは解放されていた。このまま踵を返して一人で夜道を歩いて帰り、布団にくるまって眠ってしまえたら。

「ひーちゃん、早く」

彼がそんな風に笑ったりしなければ、その願望は叶っただろう。諦めて溜息をつき、蓬莱寺に倣って門を乗り越える。着地とほぼ同時に、またしても手を取られた。今度は左手だ。あたたかくて困る。
 だが真白い校庭を目の前にした蓬莱寺は、自分から引き寄せた手をあっさりと振りほどいて走り出した。急に外気に晒された緋勇の手が、さまようように空中で泳ぐ。呆然と蓬莱寺の背中を見詰めて、裏切られたような気持ちにさえなった。緋勇にとっては困難この上ない動作を、彼はいとも簡単にやってのけたのだ。
 蓬莱寺は奇声を発しながら雪を蹴散らし、あっという間に新雪を汚し尽くした。借り物の上着を濡らす事にも躊躇は感じないらしい。全てのくびきから解き放たれたように雪と戯れる蓬莱寺をぼんやりと見詰め、彼がこんなにも楽しそうに笑っているのならいいか、と寒さに震えながら緋勇は考えていた。

 木に寄りかかって帰るタイミングを計っていた緋勇の顔面に、唐突に雪玉が激突した。投げた本人は、声を上げてそれは愉快そうに笑っている。いい度胸だなこの駄犬。思考する前に、体が自動的に反応した。足元の雪を蹴り上げ、それを煙幕にして蓬莱寺の死角に走り込む。辿り着いたのは、雪蓮掌に適した間合い。遠慮などする理由は、どこを探しても見当たらなかった。
 しかし駄犬でありながら剣士でもある蓬莱寺は、その完璧な間合いで放たれた攻撃に応を返して見せた。いつ如何なるときでも手放さぬ得物で緋勇の拳を受け、力任せに押し返す。腰を落とし、大地を踏み締め、鋭い気合いと共に大きく腕を振り上げる。その瞬間、踏ん張った足が雪の上を滑った。その隙を見逃す緋勇ではない。揺らいだ体にぶち込むのは、ずっと出番を待っていた必殺の拳、ではなく、普通の右ストレートだった。

 雪の破片を盛大に撒き散らしながら転倒した蓬莱寺に、「ざまぁみろ」と声ではなく表情だけで言ってやった。嬉しそうに悔しがる蓬莱寺が、反撃開始とばかりに立ち上がって雪を掴む。応戦する為に、緋勇も足元の雪を拾い上げる。












 濡れて重たくなった上着を小脇に抱え、同様に濡れた靴を鳴らし、二人は夜が明ける前にその場を後にした。
 靴に染み込んだ水が足先を冷やし、素手で雪に触れ続けた手には既に感覚がない。あろう事か背中にも雪を流し込まれたので、そして当然だが緋勇も同じ事をやり返したので、双方共にずぶ濡れだ。寒風が痛い。こうなる事は容易に予測できた筈なのに、どうしてあの時に思い止まれなかったのだろう。
 満足気な横顔を睨む。帰ったら風呂を貸してくれ、と彼が言うので、ふざけるな俺が先だ、と無表情に返した。じゃあ一緒に、などと彼が続ける。狭いから嫌だ、と言いながら、きっと押し切られるのだろうと後悔のように思った。

 左手だけが、あたたかい。