一月一日の未明、皆守は突然の寒風に身をすくませた。確か自分はいつものように自室のベッドに寝ていた筈なのに。訝しみながらも目は開けず、馴染んだ毛布を頭まで引き上げる。
 施錠しても侵入してきたあの男は、もういない。皆守が唯一と信じたものを突き崩し、そのままどこか遠くへ行ってしまった。死期を悟った猫のように、別れも告げずに消えてしまった。では、どうして窓が開いているのだろう。この期に及んで、咄嗟に期待してしまった自分が惨めだ。
 あの夜が終わってからずっと喉に引っ掛かっていた名前が、苦痛すら感じさせずにするりと声になる。予想外に近くで、嬉しそうな声が「うん」と頷いた。幻聴か。俺もいよいよ危なくなってきたな。胸中で自分を嘲りながら、飛び跳ねる鼓動を静めようと無駄な努力を繰り返す。
 皆守は動いていないのに、ベッドが音を立てて軋んだ。毛布からはみ出した髪に、何かが優しく触れる。冷たい。寒い。触るな。窓を閉めろ。のしかかるな。匂いを嗅ぐな。否定ばかりを心に浮かべながら、皆守はそれでも指の一本すら動かさなかった。動けなかった。
 囁くように名を呼ばれ、心臓が痛いほど大きく鳴る。

「皆守、起きて」
「まだ暗いぞ」
「もうすぐ明るくなるよ」
「明るくなってからでいいだろ」
「それじゃ遅いんだよ」

言いながら、無遠慮な手が毛布を引っ張る。負けじと端を握り締めると、足元からばさっと捲られた。急激に流れ込んだ冷気が、素足をぞわりと撫で上げる。自慢の足も、散ってしまった温もりを掻き集めるのに忙しくて攻撃する暇はない。下半身だけを空気に晒した状態で(服は着ている)丸くなった皆守の上に、乱雑な動作で上着が投げられる。クロゼットに収納されていた、冬用の上着だ。無断で人のクロゼットを開けるなと何度も言ったのに。

「ほら、とっとと着ろよ」
「ったく、唐突な奴だな」
「って言いながら寝なおすな」

まだ90%ほどは夢の中にいる皆守を、氷のような手が強く引く。腕を取られ、力任せにベッドから引きずり出された。それでも毛布を離そうとしない皆守に、焦れたような声が落ちる。

「皆守、早く」
「床が冷たい」
「起きろってば」
「なんで」
「なんでって、朝だから」
「まだ夜だ」

ベッドに上がるのも面倒で、床の上で毛布と抱き合う。その肩を掴んだ手は、記憶にあるのと寸分変わらず傷だらけだった。
 訳も分からず泣きたくなる。どうせ俺も、その無数の傷跡と同じなんだろう。暫くは痛むが、数日も経てば些細な違和感になり、やがてそれも失われ、忘れられる。
 隠すように毛布に顔を埋めると、今度は体が宙に浮いた。というのは錯覚で、正確には抱え上げられた。肩に担がれ、固定される。自分の体勢を認識して思わず非難の声を上げたが、状況を改善するには至らなかったようだ。「掴まってて」と言われ、疑問を返す間もなく窓辺から飛んだ。
 視界の端で、ぼやけたシリウスが気高く吠えた。

 そのままDT250のシートに乗せられ、気が付けば眼前の背中にしがみ付かなくてはならない状況に陥っていた。ツーストロークエンジンが、甲高い声で歌うように叫ぶ。山手線を超えて、靖国通りを抜け、江戸川を渡り、青い世界を東へ走る。眠気も吹き飛ぶ勢いで、震動と寒風が皆守を襲う。死ぬかも知れないと心から思ったのは、これで二度目だ。あ、いや、三度目だったかも。ん?四度目?まあいいや。兎に角、死ぬかと思った。

 漸く単車が止まった頃には、皆守はもう眠りとは似て非なる暗闇に落ちかけていた。平衡感覚があやしくなった体で、固まった足を何時間か振りに地上へと下ろす。道路のアスファルトには砂が浮いていた。歯の根が合わないので、不満の言葉も声にならない。内臓まで冷え切っていて、自分を抱き締めてもその腕が冷たい。ふらつく足をどうにか進めて坂を下り、さっさと歩き出した背中を追って「立入禁止」と書かれた柵を乗り越えた。

「着いたよ」
「どこだここ」
「千葉の端っこ」
「・・・へえ」

空は、既に薄っすらと青みを帯びている。虚ろな目をして立ち尽くしている皆守に、我が道のみを行く《宝探し屋》が笑った。その頬と鼻が赤くなっているのに気付き、皆守も力なく笑った。他にどうしろってんだ。

「朝だよ、皆守」

不思議な声音が、再び告げる。寒風に涙ぐんだままの瞳で、嬉しそうに笑いながら。

「間に合ったね」

全ての気力を道中に落としてきた皆守が、皮製のグローブに包まれた指先の導くままに顔を上げる。そのグローブが見慣れているよりも擦り切れていて、少しだけ悲しくなった。彼はもう、自分とは違う場所で生きている。その事実が悲しいのだと少し遅れて気付いたが、気付かなかった事にした。
 指し示された空が、金色に輝く。

「朝だよ」

もう一度、確かめるように声が告げた。冷たい体が、同じように冷え切った皆守の体に触れる。上着の襟を強く引かれ、引かれるままに上体を低くした。恐ろしいほど熱い吐息が皮膚に触れて、心臓が締め付けられる。襟を掴む手が、更に力を込めた。負けじと背中に腕を回そうと、皆守が凍えた手をそっと上げる。

 そのまま背負い投げられた。

 雄々しい気合いと共に投げ出され、受身もとれずに背中から砂に落ちる。訳が分からない。靴の先が海水に触れて、漸く我に返った。両拳を胸の前で握り締める男を、もうどうしたらいいのか分からなかったので、ただ呆然と見上げる。

「何をするっつーか、何がしたい」
「皆守!朝だよ!」
「会話ってお前には無理か?」
「皆守!」

朝だよ、と叫び、そのまま海に向かって走り出した。踏み出したその足に、濡れた爪先を引っ掛ける。景気よく水飛沫を上げて突っ伏した体に、肘を乗せて体重をかけた。顔半分を海水にひたしたまま、黒い瞳が皆守と空を同時に映す。

「朝だね、皆守」
「俺はこんな時間を朝とは呼ばない」
「朝だよ」

乗せていた肘を素早く取られ、海水に濡れた体がバランスを崩した。倒れ込んだ体を、波と傷付いた手が包む。そのどちらともがうんざりするほど冷たくて、あたたかくて、また泣きそうになった。だが泣きたくなかったので、声を上げて笑ってみた。そうすると、耳の近くでも笑い声が上がる。それがもう耐えられないほど嬉しくて、海水に身をひたしたまま大声で笑った。

 ひとしきり壊れたように笑い、それにも疲れて空を見た。不意に、海の味が唇に触れる。
 黒い瞳が、今度は皆守と海を映していた。

「しょっぱい」
「・・・寒い」
「じゃ、帰るか。走ってりゃ服も乾くよ」
「お前、やっぱり怒ってるんだろ」

それには答えず走り出した背中を追って、皆守も裸の足を踏み出す。足の指には、もう感覚がない。濡れた体に風が吹きつけ、呼吸が震えた。死にそうに寒いが、きっとこの体は生き続けるのだろう。今までのように。
 両手に靴をぶらさげて、皆守は一度だけ海を振り返った。

 きっと、あんな夜は二度と来ない。