あれから何年が経ったのか思い出せない自分に、皆守は愕然とした。元々データを熱心に記憶するような性質ではない。自分の情報を記憶する事すら億劫だと感じていた。もう一度、時計で日付を確認する。

「四月十二日」

声に出してみても事実は変わらない。今日、皆守はまた一つ年をとった。何歳になったのかさえ分からない自分が、少しだけ嫌になる。虚空を見詰めながら暫く考えたが、「まあいいか」と呟いて思考を止めた。大雑把にもほどがある、と言ってくれるような人物は、この場所には存在しない。以前よりも遥かに、いろいろな事が気にならなくなったように思える。誰の影響かなど、考えるのも面倒臭い。
 そして実をいうと皆守は今、それどころではなかった。

 皆守の目の前には、閉ざされた扉がある。それ以外に存在するのは、ただ壁と床だけだった。天井も無い。或いは存在するのかも知れないが、目視は不可能だ。
 どうやって此処に来たのか、皆守は全く思い出せなかった。気付いたら、四方を壁に囲まれて立ち尽くしていた。一度だけ扉を開こうとしたが、押しても引いても開かなかったので諦めた。一応、引き戸である可能性も試してみたが、やはり扉は微動だにしない。施錠されているのだろうか。
 皆守は途方に暮れて、意味も無く上を見た。例え此処で飢え死にしても、後悔する理由は思い浮かばない。吐き出した紫煙がゆったりと上って行くのを見詰めながら、皆守は自分の死を思った。
 あの《學園》からは解放された。青い目の男は、もうあの夜を忘れただろうか。口喧しい少女は、今も真っ直ぐに前を見詰めているのだろう。通り過ぎた日々を懐かしむ事はあっても、彼女はきっと未来の自分を愛している。保健室仲間などと戯れに言い合った気弱な友人も、皮肉屋で年上の友人も、今は遠くにいる。彼等を、羨ましいとは思わない。憶えていて欲しいとも思わなかった。自分の死で誰かが嘆くなど、耐えられない。
 不意に空腹を覚えて、皆守は床に座り込んだ。かつて、空腹は最良のスパイスだった。やがて満たされる事を、信じて疑っていなかった。真の飢えなど、皆守は知らない。乾ききる前に、慈雨は風に乗ってやって来る。その摂理の中にいたのだと、皆守は持て余した欲求に苦く笑った。







 更に何年か過ぎたような気がする。流石にそれは気のせいだと思い直すが、何故か暗くなってきた周囲に、時計を確認するのも困難だった。もしかしたら、天井は無いのかも知れない。夜になったのだろうか。横たえていた身を起こし、皆守はもう一度上を見た。やはり何も見えない。アロマも尽きた。腹が鳴っている。腹が鳴るほど飢えたのは久し振りだ。夜が明けるまで走り回り、空腹を覚えて帰路に着いた、遠い日を思い出す。幸せだったのだと、今なら素直に認められた。
 扉に目を向ける。見覚えがあるような気もするが、何処で見たのかは思い出せない。ずっと昔にも、その扉の前に立っていた記憶がある。自分ではない誰かの手が、その扉を開けた。だが、その記憶が夢ではないと断言する根拠は無い。もしかしたら、自分で作り出した幻なのかも知れない。

 石の床に頬を寄せる。冷たい感触が心地好い。周囲はもう、何も見えないほど暗くなっていた。自分の目が開いているのか閉じているのかすら分からない。こんな静寂の中で終わるのなら、それも悪くない。誰にも知られず死ぬのなら、嘆く人もいないだろう。今度こそ、皆守は確信した。これは、ずっと望んでいたものだ。今日は願いが叶う日だ。
 満たされた表情で目を閉じた皆守の耳を、轟音が劈いた。思わずビクっと肩を揺らして身を起こす。
 閉ざされていた扉が開いた。

「お前、やっぱ絶対おかしい」

扉を開けた男が、低く呟く。逆光で顔は見えない。突然の明るさに、闇を見詰めていた目が眩んだ。腕で光を遮り、皆守は大股で近付いて来る男から距離を取ろうと立ち上がった。男が何事か喚き散らしながら、壁際まで下がった皆守に詰め寄る。

「泣くとか喚くとか狂うとか!何かあるだろ!監禁プレイだぞ!何で普通にうとうとしてんだよ!」
「どっちかっていうと放置プレイじゃないか?」
「エロい事言うなよ犯すぞ!」
「悪かった、やめてくれ」
「冗談だよ」
「なんだそうか」
「・・・信じるんだ・・・」

 壁を背にした皆守は、見知らぬ男との会話に奇妙な既視感を覚えた。だが脳内をどれだけ探ってみても、目の前の男に関する情報は見付からない。困惑している皆守に気付き、男が表情を変えた。

「えーと、俺の事、分かる?」
「いや、さっぱり」
「・・・自分の名前は?」
「名前?」

唐突に問われ、皆守はそれすら思い出せない自分に初めて気付いた。名前、と口中で呟いて視線を宙に投げる。そして唖然とした。名前だけでなく、全ての情報が思い出せない。自分が何者で、何故こんな場所に居るのか。先程までは確かに存在していた遠い日の記憶すら、綺麗さっぱり消滅している。その様子を見た男が、しゃがみ込んで頭を抱えた。

「・・・もう嫌だこいつ、どうしようもねぇ」
「どうしたいんだ」
「いや、あのね、お前は皆守って名前で、とある学園の副会長だった訳さ」
「へえ」
「で、俺はお前の・・・ええと、あの、まあ、何てゆーか・・・知り合い、みたいなもん」
「そうか」
「九ちゃんって呼ばれてた」
「九ちゃん?」
「嘘ですごめんなさい。やっぱ葉佩でいいです」

しゃがんだまま見上げてくる葉佩という名の男を、皆守は無表情に見下ろした。目が合い、葉佩が無言で顔を背ける。床に手を付き、深く嘆息した。その頭頂部を見た瞬間、皆守の胸に衝動が湧き上がった。無防備に晒された急所に、爪先を叩き込みたい。急速に心臓を圧迫しだした衝動に、皆守が混乱する。いやそんな、初対面(ではないようだが)の人間に蹴りって、やばいだろ。俺ってそんな人間だったか?あ、何かそんな気がしてきた。こんな人間だったかも。

「おい、えー・・・」

足元にうずくまる男の名を呼ぼうとしたが、たった今入れたばかりの情報を何処に仕舞ったのか分からなくなった。これはよくある事だ。人の名前を一度聞いただけで覚えられるほど、皆守は社交的ではない。顔を上げた男の顔を、暫く無言で見詰める。男は数秒だけ無抵抗に顔を晒していたが、やがて堪え切れなかったように俯き、両手で顔を覆った。苦悩のポーズにも見えるが、真相は違うのかも知れない。

「あー・・・っと、九ちゃん、だっけか」
「ごめんなさい調子に乗りました。カレーあげるから許してください」
「許せるかどうかは分からんが、カレーは貰う」
「カレーの事は忘れないんだね」
「腹が減ったからな」

思い出した欲求を、素直に口にしてみる。結局正体不明の男は、ポケットからカレーライスとスプーンを取り出した。皿に盛られ、適度な熱を持つその見慣れた物体を、皆守が思わず凝視する。ルウとライスが綺麗に分割されたそれは、一分の隙もなくレストランで提供されるべき状態のカレーだ。それをこの男は、ポケットから取り出したのだ。皆守が、欲求を忘れて後退る。

「ん?どした?だいじょぶだよ、変なもん入れてないから」
「お前それ、どっから出した」
「ポケットから」

男は疑問を発した皆守を、不思議そうに見返している。疑問に思う事が理解できない、と、その瞳は語っていた。
 皆守の中で何かが崩れた。同時に、膝も崩れた。壁に背を付けたまま、ずるずると座り込む。もう嫌だ。ほんの数分前までは夢見た終焉に浸っていたのに、この男が現れた瞬間、全ての安寧が砕け散ってしまった。やっと手にした安らぎだったのに。やっと終われると思ってたのに!
 腕で顔を覆ってしまった皆守を、奇妙な男が見詰めている。浮かべているのは、まるで心配するような表情だ。一体この男は、何を心配しているというのだろう。

「どーした?カレーだぞ?」
「カレーだな。確かにそれはカレーだ。だがお前は何なんだ」
「何って、だから、お前の知り合いで、葉佩だってば」
「分かった葉佩、俺はお前を嫌ってたよな?」

葉佩が口を噤み、無表情で皆守を凝視した。無言で、手にしていたカレーをポケットに戻す。皆守はもう、何も言わなかった。葉佩が再び口を開くまで、またしても数年の歳月が流れ去ったような気がする。時計を確認するのが怖かった。本当に、永久にも等しい時間を此処で過ごしていたのかも知れない。皆守が無意識に扉に視線を走らせた。人工的な光が、切って貼ったように影を作っている。眩しすぎて、扉の向こうは見えない。

「あのねぇ皆守、此処はそーゆー場所なんだよ」
「もういい。聞きたくない」
「聞けよぉ!頼むから聞いてください!」
「そんなに言うなら聞いてやる」
「うわぁ、何だこのどす黒い気持ち!恋かな!」
「表情からは殺意が窺える」
「うん、まあいいや」

葉佩が座り込んだ。床に胡坐を掻き、ポケットに手を入れる。先程の有り得ない事象を思い出し、皆守が思わず身を硬くした。出現したのは、小さな情報端末。皆守が安堵の溜息を吐く。それに少しだけ困ったような顔をして、葉佩が状況を説明しようと口を開いた。

「えーと、要するに」
「待て、いきなり要約されても」
「気力とか記憶とか、そーゆーのを吸い取る部屋って事」
「さっぱり分からないのは予想どおりだったな」
「あったま悪ぃなー」

呟いた男の額に、思考すら介入させずに拳をぶつける。無意識の行動だった。硬い感触の残る拳を見下ろし、皆守は首を傾げた。何かが引っ掛かる。額を押さえた男が、「本気で見捨てるぞこの万年倦怠期野郎」と呟いた。その言葉の意味が分からず、皆守が視線で疑問を表す。

「だから、此処に長く居ると、お前みたいになっちゃうんだよ」
「お前も?」
「俺も長時間はやばい」
「じゃあ帰れよ」
「ん、そろそろ帰るよ」

そう言って、男が腰を上げた。何も言わずに踵を返す。光に向かって歩き出す背中を、皆守は何の感情も抱かずに見ていた。唐突にその背中が止まり、少し逡巡してから振り返る。体の半分に強い光を浴びながら、悲しそうに眉尻を下げた。

「全然思い出せない?」
「何を思い出すって?」
「俺の事とか、あと自分の事も」

無言で否定の動作を示した皆守に、男は顔を顰めた。ちらりと扉に視線を走らせ、暫く躊躇ってから体ごと皆守に向き直る。拳を握り、開き、また握った。視線は自分の爪先に向けたまま、男が問う。

「怖くない?」
「怖くはないな」
「俺は怖いよ」

ふうん、と、吐息でそれに返した皆守を見て、男は唇を引き結んだ。両の拳を握り締め、子供が泣く時のように俯く。壁に寄り掛かって座っている皆守から、その表情は窺えない。ただ、彼が酷く苦しそうにしているのが気になった。そんな顔は、もう二度と見たくないと思っていたのに。そんな顔をさせるのが自分なら、二度と会わずにいよう。でもそうすると、思い出しては辛くなる。ならば、忘れてしまおう。そんな風に考えたのは、何百年前の事だろう。もう思い出せないぐらい昔の事だ。
 湧き上がった感情を巧く形に出来ず、皆守はその努力を放棄した。まだ部屋と外の境に突っ立っている男に、なるべく優しく声をかける。

「どうした?早く行かないと、やばいんじゃないのか?」
「皆守」
「・・・」
「お前だよ!」
「あ、お、おう、そうだったな」
「ほんっとぉーに、それでいいんだな?」
「何が?」
「死ぬんじゃないんだぞ、消えるんだぞ」
「ああ、それは・・・最高だな」

皆守が、本当に幸福そうに笑った。それを見て、男が全身を震わせる。一瞬だけ全ての動きを止め、次に皆守の襟首を掴んだ。縋り付いたのかも知れない。間近で見た男の顔は傷だらけだった。古い傷も多いが、まるでついさっき負ったような怪我も目に付く。乾いて間もない瘡蓋に、色の無い液体が流れた。

「本気でどうでも良かったのかよ!ほんとに、全部、要らないのかよ!
 なあ、俺じゃなくってもいいよ。やっちーとか、阿門とか、誰でもいいからさぁ!」

肩を掴んで叫ぶ男を、皆守はぼんやりと見詰めていた。声は限りなく嗚咽に近い。だが皆守は、その言葉を理解できなかった。訳も分からず、鸚鵡返しに単語を口に乗せてみる。人名と思しきその音を発し、またしても何かが引っ掛かった。もう一度、ゆっくりと発音する。

「阿門?」
「そうだよ!お前ら腹立つぐらい仲良かったじゃねぇか!つーかこの仕事も阿門の依頼だよ!」
「お前、仕事で此処にいるのか」
「お前がこんなとこに嵌っちゃったから俺は高額報酬を泣く泣く蹴ってこんな胸糞悪いとこに来たんだよ!」
「あ、ああ、悪かったな」
「そう思うんなら早く此処から出ろ!お前が出たいと思わなきゃ出られないんだから!」
「へえ、そうなんだ」
「ああああ!お前なんか嫌いだ!」
「落ち着け」
「お前は落ち着きすぎなんだよ!」

そう言われても、皆守にそれほど慌てる理由は無い。緩やかに、密やかに、自分という存在の終焉と戯れる事の他に、為すべき事を思い付けない。そしてその為には、この騒々しい男は邪魔以外の何者でもなかった。この男が言葉を発する度に、皆守の中で何かが揺れる。それが酷く煩わしい。誰にも知られず消え失せるのが、そんなに悪い事なのか。
 皆守がそう言うと、傷だらけの顔が痛そうに歪んだ。少しの間だけ皆守を睨み、床に視線を戻す。皆守が口にした願いは、かつてこの男の願いでもあった。だがそんな昔の事、皆守はもう忘れている。
 見知らぬ男が、懇願するように皆守を見上げた。

「外は春だよ」
「ああ、そうだったかな」
「お前の好きな昼寝日和だよ」

 暖かい陽射しに包まれて、夢と現の狭間に揺れたのは、遠い昔の事だ。
 空の色を、飽きもせずに褒め称えた男がいた。皆守が吐き出した煙に手を伸ばし、その甘さに驚いた男がいた。傷だらけの手は、いつも何かを求めていた。あの日は春ではなかった。全てが眠りに落ちてゆく季節に、恐ろしいほどの灼熱を知った。彼に消えない傷を残せるのならば、救いなど要らない。
 見知らぬ男が、流れる涙を隠しもせずに皆守に縋り付いた。

「もうお前の部屋からゲットレしないから」
「げっとれ?」
「地上最強カレー作ってあげるから」
「何と戦ってんだ、そのカレー」
「ちゃんと、帰ってくるから」
「何処に?」
「・・・え、ええと、日本に」
「何でそんなに必死なんだお前」
「いや、なんか、お前のそれが俺の所為だったら嫌だなぁって」
「俺の、どれが?」
「たぶん違うと思うけどさ」

 開け放たれていた扉が、先程よりもほんの僅かに空間を狭めていた。閉まり始めたのだ。その事を告げると、男が弾かれたように顔を上げた。その視線が、真正面から皆守の瞳を貫く。

「皆守」
「・・・」
「皆守!」
「え、あ、ああ」
「皆守ぃ・・・」

名を呼びながら肩に縋ってくる男を、皆守は困惑して見下ろした。額に裂傷がある。頬には擦過傷と打撲。指先にも血が滲んでいる。人差し指の爪は、完全に剥がれていた。よく見ると、黒い服にいくつも染みがある。その服の下も大小様々な傷がある事を、皆守は知っていた。今は隠れている右の上腕の傷は、複雑骨折の痕だ。その皮膚が裂けて血が噴き出した瞬間を、皆守は知っている。
 扉がまた僅かに狭まった。皆守の肩を掴んだまま、葉佩が泣き崩れる。祈りさえ知らない葉佩は、絶望もまた知る事は無い。ただ自分の無力を嘆き、憎み、いつか砕け散るその日まで、壊れたまま進むのだろう。自分を壊した全てのものを、忘れた振りして抱えて往くのだ。
 その脆い強さに、皆守はずっと憧れていた。同時に、どうしようもなく悲しかった。

 扉が更に狭くなる。
 葉佩が皆守を呼ぶ。皆守は、自分が付けたその傷跡を、汚れた服の上から強く握った。葉佩の汚れた指先が、皆守の背中に回される。爪を立て、決して離すまいと、しがみ付く。
 皆守の背中に銃創を残した男が、「俺を忘れないで」と泣いていた。




























 見慣れた天井が見える。苦労して重い頭を上げ、更に多大なる労力を費やして体を起こす。時計の文字盤に表示されている日付は、今日が卒業式である事を示していた。
 夢を見ていたような気がするが、悪夢の直後に必ず訪れる虚無感は無い。むしろ、奇妙な昂揚感が脳の隅で燻っている。夢路の記憶を辿ろうと目を閉じても、糸口すら発見できなかった。早々に無駄な努力を諦め、少し湿った服を脱ぎ捨てる。その肩の部分にくっきりと付いた血の跡に、皆守の心臓が跳ね上がった。