まさか、その場所にいるとは思わなかった。
 冬枯れの墓地しか知らなかった葉佩は、薄紅の花弁に霞むその姿に呆然とした。憶えのある香りに、涙腺が緩むのを自覚する。彼に会えた事以上に、自分の体の反応が信じられなかった。

「久し振りだな」

そう言って笑ったのは、かつての級友だった。嘘で塗り固めた彼との関係は、それでも得難く心地好かった事を思い出す。
 葉佩が此処に立つ理由は、自分でも明確には出来なかった。葉佩は、明日には日本を発つ。もしかしたら、二度とこの地を踏む事は無いのかも知れない。そう思った瞬間、葉佩の足はこの場所に向かった。稀有な出会いだった事は認識していたが、別れを惜しむなどという感情を抱くとは、あの時は想像もしなかった。
 笑った皆守に笑い返そうとして、葉佩はある事実に気付いた。皆守は、葉佩の失くした部品と同じ形をしている。気付きたくなかったその事実は、葉佩の決意を揺るがせた。
 何も言わずに行こうと思っていたのに。

「皆守、チャック開いてるよ」

まるで別れの言葉を吐くように、葉佩は皆守に告げた。皆守が慌ててズボンのファスナーに手を当てる。葉佩は、彼の驚いた顔が好きだった。眠たげな双眸が見開かれる様は、何度見ても愉快で堪らない。
 皆守はファスナーを確認し、告げられた言葉が虚言だった事を悟った。葉佩は、墓石に凭れて笑い死に寸前まで追い詰められている。痙攣のように背を震わせ、しゃくり上げるような声を漏らしていた。要するに、大爆笑していた。引き攣れた声と共に言葉を発しているらしいが、皆守にはそれが聞き取れない。湧き上がったのが怒りだったのを認め、皆守は心の隅で安堵した。
 悪夢から解放されたと思ったら、代わりに幻覚を見るようになった。教室で、屋上で、保健室でも廊下でも、皆守は幻を見た。隣で笑う男の幻を。下らない戯言を吐いて笑い転げる、偽りの友人の姿を見た。そして今、幻と寸分違わず姿で笑い転げる男が一人。
 皆守が地を蹴るのと、葉佩が危険に気付いたのは同時だった。

 綺麗に決まった上段蹴りに感嘆しつつ、葉佩が吹き飛んだ。墓石に激突し、奇妙な声を漏らして地に伏す。初動から攻撃への移行が恐ろしく速いのは、皆守の呪われた力なのだと思っていた。だが呪いが失われた今でも、皆守は速かった。

「で、何の用だ」
「いや、だって四月一日だから」
「だから?」
「嘘ついてもいいだろ?」
「・・・で?」

皆守は、冷たい表情で冷たい言葉を吐き出している。こんなに非情な男だっただろうか。葉佩が打たれた部位を擦りながら身を起こす。それを見詰める皆守に、表情は無い。花弁と絡んだ紫煙が、霞んだ空を彩っている。葉佩に、この季節をこの場所で過ごすつもりは無かった。
 少しだけ笑ったまま沈黙を続ける葉佩を、皆守は何も言わずにただ見ている。言葉を待っているようにも見える。だが、葉佩には彼に渡すべき言葉など存在しなかった。皆守が何を求めているのかさえ分からない。仕方なく、葉佩は以前のように笑ってみた。皆守が嫌っていた、あの表情だ。予想どおり、皆守は眉を顰めて舌を打った。

「用が無いんなら、俺は行くぞ」
「何処に?」
「俺はもう此処の生徒じゃない」
「だから、何処に行くのかって訊いてんだけど」
「・・・お前には関係ない」

踵を返した皆守を、引き止める理由は無い。その事実を、葉佩は無感動に見下ろした。ふと、葉佩の胸につまらない想像がよぎる。去ろうとする背中に「一緒に行こう」とでも言ったら、彼はどんな顔をするだろう。友人だと言った言葉は嘘だったのだが、望んでいたのは本当だと言えたら。倖いにして、今日は嘘が許される奇妙な風習の日だ。
 皆守は振り返らずに墓地を出て行った。このまま突っ立っていれば、この面倒臭い感情も消え失せるのだろう。その方がいい。こんな想いを背負ったまま、この先の道を行く事は出来ない。

「皆守ー!」

遠くなった背中に、大声で呼びかける。意味など無い。あってはならない。皆守が振り向いた。億劫そうな態度と裏腹に、口の端が僅かに上がっている。それが、自分でも気味が悪いほど嬉しかった。もしかしたら、友人のように別れを告げて、再会を約束できるかも知れない。そんな夢みたいな事を、期待してしまう。

「俺、行くから!」
「おう、行っちまえ」

期待したほどの湿っぽい言葉は返らなかった。抱き合って涙ながらに別れを惜しんだりとか、そのぐらいはしたかったのだが。自分の思考のあまりの愚かさに、葉佩は思わず笑った。
 言ってしまおうか。今日は四月一日だ。何も残さずに、今までの続きを演じるように、ずっと隠していた事を彼に伝えてしまおうか。本当は、殴るぐらいでは足りないほど、あの夜が忘れられないのだと。
 逡巡する葉佩を、皆守が振り向いた。

「葉佩」
「お、おう!なに?」
「早く行けよ」
「・・・行くよ!うるせぇな!」
「なるべく遠くにな」

皆守が、そう言って笑った。もう忘れてしまったように無邪気に、晴れやかに。
 葉佩は、再び込み上げたものを慌てて飲み下した。彼がそんな風に笑えるのなら、望みは叶っているように思える。ならば、この嵐は何だ。空が青いのが気に食わない。花がさざめくのも苛付く。彼が霞むのが、耐えられない。緩やかに流れる風も、肌を温める陽射しも、少しだけ離れた場所から笑う皆守も、全てが受け入れ難い。
 無言で呆けているようにしか見えない葉佩に、皆守がまた笑った。

「お前がいなくなって、清々する」
「お、おお・・・未だかつてない素直さだな」
「早く行っちまえ。二度と戻ってくるな」
「分かったよ・・・何か悲しくなってきた」
「俺は嬉しい」

言いながら、皆守が口から紫煙を吐く。流れた香りが鼻腔に届き、葉佩は息を止めて俯いた。彼なりの強がりだったとしても、酷薄に聞こえてしまう。そんな自分が許せない。
 いいさ。片思いなら慣れてる。ずっと石と闇だけを思って生きてきた。この感情は、初めて触れた熱さに驚いて、混乱してしまっただけだ。心臓が軋むのも、時が経てば消えるに違いない。心配する必要も無い。元に戻るだけだ。
 皆守が、溜息をついて葉佩に歩み寄った。近付く足音に、咄嗟に葉佩は地を蹴ろうと腰を落とした。逃げる以外に、泣き顔を隠す手段を思い付けない。低く視線を這わせ、位置を把握する。障害物が多いので、それを利用すれば撹乱できる。働き出した葉佩の思考を察した皆守が、予想以上の歩幅で一気に距離を詰めた。
 葉佩が横に跳んだ。墓石の陰に身を投げ、身を低くして移動する。皆守の爪先が、その石を砕いた。飛び散った破片から顔を庇い、葉佩が腕を上げる。その死角に、皆守が走り込んだ。葉佩がナイフを抜く。皆守が踵を振る。刃の腹でそれを受け流し、葉佩が距離を取る為に地面を転がった。更に踏み込もうとする皆守に、葉佩はナイフを足元に置いて掌を見せた。

「ちょっと待て!何で殺し合ってんだ俺等は!」
「いや、お前が逃げるから」
「逃げるよ!何だその一撃必殺っぷりは!」
「だって、逃げるから」
「だってじゃねぇ!やめろよ可愛いじゃねぇか!」
「何で泣いてんだよ」
「泣くだろこれは!」

目に涙を浮かべて叫ぶ葉佩に、皆守が顔を顰めた。本気で泣きそうになっている葉佩に、苛立たしげに舌を打つ。葉佩は地面に座り込んだまま、袖で顔全体を拭った。

「お前がつまらない事するからだ」
「俺は面白い奴だよ!」
「お前が思ってるほどじゃない」
「まあ、面白さでお前に勝てるとは思ってないよ」

目を逸らしたまま、葉佩はまだ逃げ道を探している。斜め上からその表情を見詰めていた皆守が、徐にしゃがみ込んだ。葉佩が腰を浮かしたので、素早く静止の言葉を落とす。同時に、左手で額を押さえ付ける。触れた掌に、葉佩が無言で固まった。
 葉佩に触れているのは、あの夜、別れを告げる為に振った手だ。

「早く行っちまえ。
 もうお前の顔は見たくない。
 二度と会いたくない。
 ・・・だから、戻ってくるな」

短く刈り込まれた髪を、皆守の手が優しく撫でた。傷だらけの皮膚を辿り、頬に軽く打ち付けられる。そのまま葉佩の頬で留まる手は、僅かに湿っていた。それを指摘しようと葉佩が声を発する前に、手がするりと離れる。離れた温もりを追う事すら忘れ、葉佩が目を見開いた。今日は四月一日だ。皆守が、堪えきれずに破顔する。

「・・・お前、イベント興味ありませんってな面ぁして・・・」
「お前がつまらない事言うからだ」
「軽い挨拶だろ」
「明日、大和あたりに仕掛けてみる」
「明日は二日だよ」
「あ・・・」

皆守が視線を空に投げる。葉佩はそれを追おうと上げた視線を、慌てて地上に戻した。些細な悪戯に、本気で悔しがる皆守を見たかっただけだ。暫くぼけっと見詰めていたら、不意に皆守が視線を合わせた。逸らす暇も無く、見覚えのある表情で笑う。

「まあいいか。お前は騙せたしな」
「・・・騙されてねぇよ」
「本気で泣いてただろ」
「泣いてねぇよ!」

一頻り喚き合ってから、皆守が立ち上がって大きく体を伸ばす。すっかり気を抜いているその背中に、葉佩は今度こそ隠していた言葉を放とうと唇を引き締めた。

 今日が四月一日で良かった。
 臆病な葉佩が、口を開く。
 卑怯な嘘をつく為に。